素晴らしきバレエの世界
ーそして晴れてプロのバレリーナとしてのキャリアがスタートします。
「カンパニー」とはどんな世界なのでしょうか。
毎日レッスンして、舞台があればそれのリハーサルをやるという感じです。
キャスティングは舞台監督などが行いますが、カンパニーによっては昇級試験があったりします。
私が東京バレエ団に入った年は、10数人入ってふと気付くと残っていたのが4人でした。
1年目は研修生なんですけど、1年経つ頃までにダブルキャストでも役がついていないとその先は厳しくて、そこから使ってもらえるようになるにはさらに厳しい競争があるんです。だから1年で芽が出ないと辞めてしまう人も多いのですが、幸い私はダブルキャストから本キャストになって、ヨーロッパなどにも連れて行ってもらえるようになりました。実はそれでも十分満足だったんですけど、当時の東京バレエ団はCクラスから始まって、一番上のAクラスそして研究科まであって、京都の先生たちもすぐ帰ってくると思っていたし、母もすぐに戻ってくるんだからと電化製品も一番安いやつとかにされてしまって…。だからなおさら石の上にも3年じゃないですけど、3年間は何があっても辞めないと心に決めました。
そう思ってやっていたからかは分からないですが、運良くBクラス、Aクラスとトントンと行きまして、そこまで来たならソリストまでなりたいと思うようになって、最終的には研究科を含め9年間も在籍することになりました。
ーそれからソリストなることを実現させたわけですが、どんな舞台を経験してきたのですか。
基本的にはヨーロッパが多かったんですけど、パリのオペラ座やミラノのスカラ座、ウィーン国立歌劇場などいわゆる「世界3大オペラ劇場」で踊ることができました。他にも冷戦時代の東西ドイツやイタリアのコロッセオなど色々な舞台を経験させてもらいました。
歴史的にも有名な劇場は本当に圧倒的で、特にオペラ座は素晴らしかったです。ロシアにも3ヶ月いましたけど、ボリショイ、レニングラード、キエフなど歴代の王様が保護してきたような劇場はやっぱりすごいなぁと思いますし、その舞台に自分が立てるというのはとても幸せなことだなと。
当時は1度ツアーに出ると3ヶ月くらいかけて各地を回る感じでしたからハードではありましたが、大きな舞台とそのときにしかできない様々な経験をすることができたのは本当に良かったですね。
ー特に印象に残っている公演はありますか。
バレエ団に入って初めて役をもらった初舞台ですね。
NHKホールで行われた、ミラノのスカラ座のオペラ「トゥーランドット」だったんですけど、1週間続けて行われる公演で、舞台装置やスタッフの規模もすごくて、エキストラだけでも100人以上いるんです。そして世界的なオペラ歌手やダンサーたちと同じ舞台に自分がいるわけですよ。それまでオペラとかほとんど聴いたことがなかったんですけど、声量がすごくて舞台から落ちそうになるくらい(笑)。これが初めて目にする世界の舞台なんだなと。本当に素晴らしかったですね。
でも出演するのは大変で、私たちは8人だけが選ばれたんですけど、下っ端だった私ともう一人の子と2人で朝から掃除をして振付をしてもらって、すぐに自分たちのリハーサルに行って毎日寝られるのが2,3時間みたいな。最後は体を引きずるようにして何とか無事に公演を終えたんですけど、あれに選ばれなかったらオペラなんて出られなかっただろうし、ましてやミラノのスカラ座と一緒に踊れることなんてなかっただろうし、「トゥーランドット」の曲を聴くと今でも当時を鮮明に思い出しますね。
ーそして9年間在籍して、数多くの公演を経験した東京バレエ団を退団する時が来ます。
私たちが入ったころは、30歳越えてもダブルキャスト、トリプルキャストで踊ることができない先輩ダンサーが多くいて、実際そこまでいくとなかなか役に付くのは難しいんですよね。だから新人たちは本当に大変で……踊る先輩たちより早く楽屋に入り、終演後は楽屋のお掃除までして最後に帰るのが当たり前。雑用、雑用で……。だから私は後輩に道を譲るためにも30歳になったらきっぱり辞めようと決めていました。
ーいま振り返ってみて、どうしてプロのバレリーナとして、さらに東京バレエ団のAクラスのソリストにまでなることができたのだと思いますか。
う〜ん、分からないんですけど本当にガムシャラにやっていたんだと思います。無ですよね。自分にはコレしかないと思っていましたし、バカみたいに石の上にも3年と思っていたので。
あとはいつも遅咲きだったこととか、様々な悔しさとかそういうものを常にバネにしてきたというのはあります。実は一緒に入った友人がいまして、1年待たずして先に役をもらったんですね。もちろんおめでとうという気持ちもあったのですが、本心では悲しくて、家に帰ってから隣の人にわかならないように押し入れに入って布団をかぶって一晩泣きはらしたということもありました。でも今思えばそれも良い経験で、散々泣いたら立ち直って「よし私もやってやる!」って思ったんです。
でもね、私は全然打たれ強いなんて思っていなくて、むしろ弱いと思っていました。母や京都の先生や友人たちには2ヶ月で泣いて帰って来ると思われていたくらいですから。
本当にただただガムシャラだったという感じです。